Dead Musicians Society

日々の話や音楽工房ピーチジャムのことを綴っていきます

マタアウヒマデ

「また逢う日まで」は1971年発表の尾崎紀世彦の超ヒット曲ですよね。

日本人でしたら、聞いたことない方は少ないのではないでしょうか。

彼はこの曲でこの年のレコード大賞日本歌謡大賞と両方の大賞をとり、更に紅白歌合戦への初出場も決め、この曲は彼の人生の中でも最大のヒット曲になりました。

歌を生業としている者なら誰でもヒット曲は欲しいものでしょう。

まして「また逢う日まで」のような国民的大ヒット曲ならなおさらでしょう。

しかし尾崎氏はこの曲の為に想像を絶する苦しみを味わうことになったそうです。

この曲以降もヒット曲は続いたのですが、やはり「また逢う日まで」ほどのものはなかったようです。

そうなると

       尾崎紀世彦 = また逢う日まで

 

という図式が成り立ちます。

そうです、彼はこれからこの「また逢う日まで」を否が応でもでも歌って行かなくてはならなくなったのです。

死ぬまで。

行く先々で「また逢う日まで」をリクエストされる。

本人としては、もう本当に飽き飽きしていたことでしょう。

しかし歌わなければ聴衆は納得しません。

実際歌いたくなくて、なんとかメロディをフェイクしたりしてごまかしていたようです。

確かに良い曲ですが、それが来る日も来る日も繰り返し歌わなければならないとなると、想像しただけでも恐ろしいですね。

きっと尾崎氏以外でも、超ヒット曲を持つ方なら同じ苦しみを味わっていることと思います。

超ヒット曲の代償は永遠の苦しみ。

まるで悪魔に魂を売るようなものなのかも。 

ところでなぜこんな話を?

私が勉強している「Jazz」という音楽は、いわゆるポピュラーな音楽ではありません。

そして、ポピュラーミュージックが再現性の音楽ならば、Jazzは非再現性の音楽とでもいいましょうか。

つまりJazzは「再現」しない音楽、もっと言ったら「再現」させる必要のない音楽なんだと思います。

これは、ある意味フォトグラフィー(写真)にも似ています。

フォトグラフィーは、日常や非日常のある一瞬を切り取るような作業と言われてます。

これはまったくJazzにも言えることです。

例えば「Solar」と言うスタンダードを演奏したとする。

昨日演奏した「Solar」と今日演奏したものでは全く違うものになるはずです。

昨日の演奏と今日の演奏では切り取った場面が違うのです。

もし、それが同じ演奏だったとするなら、それはきっと「Jazz」ではないはず。

しかし、最近の自分の演奏、いやいやもうだいぶ前からですが、結構同じような演奏が多いなと思ってます。

なんというか、やはり安定を求めてしまう自分がおります。

本当はもっと自由に演奏することが許される音楽をやっているのに。

先生によく言われるのが  

 

「ひとつとして同じ演奏はない」

 

つまり今、この時この時の演奏をしないとジャズじゃない、と。

そんな演奏をすれば、必然的に同じ音、同じメロディは出てこない、と。

せっかくジャズをやっているのに同じ演奏の繰り返しを求めるなんてどうかしているな、と思います。

同じことをやるのが嫌いでジャズを始めたはずなのに。

そうだ、ちょっと初心に帰ってみようかな。

 

 

 

 

また逢う日まで

また逢う日まで